「ウェブ社会のゆくえ」のメインテーマは多孔化した社会でのコミュニケーションの問題と継承なので、サラッと書かれているけど見逃せない話として「ウェブ社会の思想」から引き継がれている「遍在する私」「データとしての私が先回りする」という話があって、それは出版当時よりもソーシャルメディアやネットショッピング、その他Webサービスの利用が日常的になった2013年の今の方がより直接影響のある話になっていると思うので、2013/10/20の阿佐ヶ谷での読書会で話したいです。
「遍在する私」「データとしての私が先回りする」というのは、本人ではなくクレジットカードや銀行の信用情報で与信判断されるように、日常的に利用するWebサービスの行動履歴の集合によって判断されるということを指します。具体例としてよく挙げられるのは、就職活動の際にTwitterやFacebookの書き込みが採用を左右するといったものです。
それだけにとどまらず、「データの私」を参照することで先回りして選択肢を提示することが可能になり、本来なら選ぶかもしれなかった選択肢の存在が消えてしまうことになったり、もっと酷ければ恣意的な選別や分離を行われてもその事に気づくことすらできないということにもなりかねないという話です。「ウェブ社会の思想」では、空港の入国審査で一人ずつ入室させ、特定の人種の場合は左の扉を、それ以外なら右の扉を開いて前者のみに対して厳しくボディチェックするという例が紹介されていました。
また、Amazonのレコメンドシステムについて、目の前に示される自分専用にパーソナライズされたかに見える選択肢が「本当の私に」に対する「玄人の判断」による提案ではなく、「先回りするデータとしての私」に対して「行動履歴からのシステム化」された提案となっていることを示しています。
別にAmazonの本のレコメンドなんてどうでもいいじゃないか。と思うかもしれませんが、これと同様のことが人生に大きく影響する場合に起これば、あたかも自分が選択した結果であるかのように、偽りの宿命の中に閉じ込められることになってしまう可能性があります。具体例を挙げるなら、適職診断や性格診断などが挙げられるでしょう。
未読ですが、「“反転”するグローバリゼーション」では占いやスピリチュアルによって駆動される宿命についても書かれているそうなので、そちらも興味があります。