「窓は風景を切りとる装置である」というYKK APのCMがとても好きで、写真を撮る時も「カメラという装置でどんな風景を切りとるか」そんな事を考えている。カメラが窓と違うところは、窓をどこに設置するかを選べるところと、その風景のどの瞬間を切り取るかを決定できるところである。
無限のかのように広がる空間のどこに窓を設置するかという「横軸」と、通り過ぎれば二度と取り戻せない時間という「縦軸」。同じ人の笑った顔であっても一つとして同じものはなく、チャンスは一度きり。場の流れと雰囲気を予想して先回りしてカメラを構え、縦軸と横軸の交わる瞬間を静かに待つ。
ブツ撮りや風景写真、照明や衣装を作り込むスチル撮影にあまり興味が向かない理由はそこにあって、いうならばライブカメラマンをやりたいのである。昨晩Tweetしたように、すべての写真は僕の視点であり、記憶であり、感情と思い出は自分の写っていない写真にこそアーカイブされる。
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なんでこんな事を考えたかと言うと、下のtweetからの派生ですね。
イベントの度に気の利く人から「とものりさん写ってないじゃないですか。撮りますよ」的な事を言われるのだが、すべての写真が僕の視点を切りとったものであり、僕の記憶そのもであるので、必ずしも自分が写っている必要はないのである。シャッターを切った理由とか、見たら意外と思い出す
— とものりさん (@tomonr1984) 2013年1月29日
まあこんな理由を伝えても仕方がないし、せっかくの気遣いを断るのも悪いので、「いやー写真苦手なんでいいんですよ。自分は写らなくても」とかいながらもフレームに収まるんですけど(笑)
いつも気を遣ってもらってありがとうございます。
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----- 追記
友人からこんなコメントが届きました。
その視点はなかった。というか人の記憶に残りたいとは思っていないのかも。
君が画像をアップした時から、その画像は君の視点からみんなの視点に変わるんだ。
だから、君も写っていないとダメなんです。