2017/01/24

ジョセフ・ヒース『反逆の神話』序章まとめ

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マトリックス(第1作)に対する「自分は夢を見ているのではないと、どうしてわかるのか?」というルネ・デカルトの思考実験の現代版である。という解釈はまちがっている。この作品は、認識論的ジレンマを表現するものではなく、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』にまでさかのぼる政治思想のメタファである。(主人公のネロが白兎と出会うシーンに注目せよ。彼が手している本の背のタイトルが見える。ジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』だ)
ドゥボールの主張は「われわれの住む世界はリアルではない」という単純明快なものだ。消費資本主義は人間のあらゆる本物の経験を商品に変換し、マスメディアを通じて売ることで、人々をスペクタクルへと引きずりこんでいった。かくしてわれわれは、人間の本質から完全に阻害されたマトリックスの世界に生きている。というわけである。
このような世界では体制の細部を変えようとすることに意味はなく、必要なのは夢から覚めること。文化全般、社会全体が白昼夢であると、完全に否定すべきものであると認めることである。
もちろんこの考え方は斬新なものではない。プラトンや初期のキリスト教とも同じように考えた。しかし違っている点もある。プラトンは自由になるためには数十年に及ぶ学問と哲学的考察を要すると考えたし、キリスト教とは死(と神による審判)のみがその方法だと考えた。一方でドゥボールとシチュアシオニストたちは、自分の周囲の世界はどこかおかしいというサインさえあればいいと考えた。
このように考えていれば、伝統的な政治行動主義は役に立たない。マトリックスの中で世界を変えるようなものだからだ。本当になすべきことは、認知不協和を生み出し、人々を目覚めさせ、プラグを抜くことだ。それはひとつの芸術作品でも、ひとつの抗議行動でも、ひとつの衣服によっても引き起こすことができる。敵は主流社会。つまり目覚めることを拒む人間、文化への順応に固執する人間だ。私は目覚めた特別な人間である。「反逆せよ!認知不協和を生み出せ!」これがカルチャー・ジャミングの発想の源泉である。

本書では、このようなカルチャージャミングの思想による、カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革し得なかったと主張する。我々の生きる世界はマトリックスのなかでもスペクタクルのなかでもない。数十億の人間からなる、もっと平凡なものだ。妨害の主体となる単一文化や単一システムなど存在しないのだから、文化は妨害され得ない。あるのは寄せ集められ、レガシーの上に重ねられた社会制度のごたまぜだけである。このような社会では、カウンターカルチャーの反逆は無益なだけでなく逆効果だ。生活の具体的な改善につながる政策からエネルギーと努力をそらせてしまうだけでなく、漸進的進化を軽んじる風潮を促すからである。
公民権運動、フェミニズム運動、社会福祉国家の与えるセーフティネットの充実などにより、この半世紀で社会は大きく前進した。しかし、そうした改善は、プラグを抜くことで達成されたのではない。民主的な政治活動の面倒な手順を経て議論し、研究し、提携し、改革を法制化することで達成された。性的倒錯行為、パフォーマンスアート、ドラッグ e.t.c…を楽しむことは破壊的活動ではないし、体制を揺るがすこともない。快楽主義が広まることで社会運動を組織することは難しくなり、社会正義のために犠牲を払わせることは困難になっている。

進歩的左派がすべきことは、社会正義への問題の懸念をカウンターカルチャー的な批判から解放して社会正義の問題を追及し続けることだ。反逆ほど面白くはなさそうだが、もっと有益なはずだ。



反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
ジョセフ・ヒース (著), アンドルー・ポター (著), 栗原 百代 (翻訳)

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